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2009年5月30日

旅の思い出<ケニア編 Part2>

タイ編を書いたあとに思い出したので、"外国で具合が悪くなった"話。
ワタシが海外で体調を崩したのは、今のところケニアでのこの1回のみ(^^)

2002年1月からの3回目のケニア。
1回目&2回目はケニアに大学時代からの友達が住んでいたから、ひとりで行動していても拠点にはいつも友達が暖かく迎えてくれる環境にあった。
でも3回目のケニアは、友達はすでに帰国しちゃっていたので、まったくの一人旅。

成田→アムステルダム(オランダ)→ナイロビ(ケニア)に着いて、即マサイマラまで飛ぶ。
成田を出るのが前日午前11時で、マサイマラ到着が翌日の午前11時だから、感覚的には24時間後。ケニアと日本の時差が-6時間だから正確には30時間後ってところ(今はこのルートがあるかは不明)。
全行程9日間の旅だけど、そんなわけでケニアでの宿泊(全部マサイマラ)は5泊のみ!
最初の3泊は前回も行ったムパタ・サファリクラブに泊まり、最後の2泊はオロナナに泊まった。
ムパタはコテージ式の丘の上の見晴らしの良いところにあるロッジだけど、オロナナはムパタの丘の下、マラ川のほとりにあるテント式ロッジ。
「お姫様気分が味わえるよ〜」と言われて行ってみた。

実際、超お姫様待遇を受ける(あー、今は"セレブ"というのか)。
たまたまワタシが泊まったこの2日間、お客はワタシひとりだったのだっ〜(@@)/
「部屋係もガイドもコックもガードマンも全てがあなたの専属です」と言われる(^^;
好きな時間にごはんもお酒もOKだし、サファリも好きな時間でOK。リクエストいつでもなんでもOKの世界(普通、ケニアでのサファリを目的とした旅行ではスケジュールが決まっている)。
実際、サファリが終わって、ドライバーと話をしていると、すかさずアルコール好きのワタシのためにビールとおつまみが運ばれてきたり(*^^*)

で、「明日は帰国」というオロナナ2日目の晩ごはん。
ダイニングでたらふくワインも飲んだんだけれど、その後、部屋までジントニックを持ってきてもらうことにした。
シャワーをあびていたら、ジントニックが来た気配。
「テント外のデッキにあるテーブルに置いておいてね」なんてシャワールームからお願いするなんて、セレブ風でしょ?(^^)

↓オロナナの泊まったテント。ひとりで泊まったのに、ダブルベッドが2つある。テント入口側からの写真。奥にトイレとバスルームがある。
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↓テントの外はこんな感じ。椅子やテーブルのある奥はカバのいるマラ川。
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その晩、ベッドに入って2時間後くらいに、それはやってきた。
いきなり吐き気で目が醒めて、トイレへ走る。
調子にのって飲み過ぎてしまったなーと思う。
ベッドに戻ってまた1時間後に吐き気で目が醒める。
呑兵衛のワタシ、これは"飲み過ぎじゃない"ということに気づく。
その後も1時間ごとに吐き気で目が醒め、トイレとベッドの往復が始まる...。

オロナナは24時間電気が使えるので、枕元の電気スタンドはつけっぱなしにしていた。
トイレへの往復をして、ベッドでうつらうつらしていると、テントがなんだか揺れている。どうやらカバ(こわいのよー)がやってきて、ワタシのテントをユッサユッサしているらしい。
直後にタッタッタッと人の走る音。
「あー、マサイのガードマンさんがカバを追っ払ってくれているんだ」と夢うつつで思う。

早朝のサファリに行くために、5時にモーニングコールを頼んでいた。
枕元には緊急時用のトランシーバーがあったけれど、あと2時間くらいだから様子をみようと、そのままひとりカバとマサイの足音をききながら朦朧とする。

朝5時。几帳面なお部屋係が「5時です」とテントの外から声をかける。
吐き気はだいぶおさまってきたものの、ここで訴えなきゃなので、ベッドから「具合が悪いの。大声出すの辛いから、テントの中まで入ってきて」と伝える。
が、ワタシの言葉たらずの英語に、"ワタシのお部屋係"さんは、なかなかテントまで入ってきてくれない(^^;
どなるの辛いんですけど...。
「I'm in an emergency!」と、乱暴英語で言ったらようやく枕元まで来てくれた。

その後、まずマネージャー(英国人)が枕元にやってきて、ポカリスエットの素みたいのをくれたり、フライングドクター(マサイマラには病院がないので、"フライングドクター"という飛行機搬送隊を使ってナイロビの病院まで運ぶシステム)を使うか、など、あれこれ心配してくれる。
フライングドクターはあまりにも大げさなので断り、吐き気止めの薬がほしいことを伝える。
ドライバーさんがすぐに買いに行ってくれて、枕元でワタシの世話をしてくれた。

とにかく眠い。
当然午前中のサファリもキャンセルし、お昼のナイロビ行き飛行機の時間ぎりぎりまで寝ている。
起こされて朦朧としながらチェックアウト。
ロッジの全員が心配そうにワタシに声をかける。
眠くて眠くてしょうがないので、英語をしゃべるアタマになんてなれなくて、挨拶もそこそこにお別れ。
ナイロビについても眠くて眠くて...。
吐き気はなくなったものの、胃がきりきり痛むのと眠気との戦い。
この日は半日チャーターしていたドライバーさんと、動物孤児院→ナイロビ国立公園→お買い物の予定だったのだけれど、ナイロビ国立公園内の途中で限界に達する。
夜のフライトまでどこかホテルでもとってもらってヨコになりたい!と旅行会社さん(道祖神さん)にお願いしたら、快く「事務所のソファーで良かったら、寝てください」といってくれた。
どうやら飲んだ抗生物質(マサイマラで買ってきてもらったもの)が強すぎたらしく(ワタシは普段「薬」を極力飲まないタイプ)、極度の眠気はそのためのものだったみたい。
お言葉に甘えてソファーで爆睡。

その後、なんとかナイロビ市内へ買い物に出たものの、眠気と胃の痛みは延々続く。
帰りのアムステルダム行きの飛行機でも9時間飲み食いいっさいとらず爆睡(あー、もったいなかった...)
目が醒めたときはすでにもうじきオランダ。オレンジジュースだけもらって飲む。
眠気はオランダについたあたりで回復したけれど、胃の痛みはまだあって、結局丸2日近く食べ物は全く食べられなかった。
アムステルダム・スキポール空港でお寿司屋さんを発見して、食べたかったのだけれど、さすがにこの状態で"ナマモノ"はやめておこうと挫折(次のケニアの帰りでは食べた!)。

結局思うに、ワタシは食べ物にあたったわけではなく、旅の疲れ(本格的な一人旅はこれが初めてだった)が知らず知らずのうちに免疫力をおとしていたみたい。
よくこういう話は聞いていたので納得です(なのでオロナナは全然問題なしですよ〜)。

2009年5月26日

今日の英会話

「通販生活」のテレビCMじゃないけど『今日は火曜日だよ!』ってことで、英会話教室の日。
あーーー、なんだか、このクラスに参加するために別のレッスン受けたい心境…(^^;
試行錯誤で予習・復習しても、全然追いつかないーーー。

今日はひとりお休みで、生徒は韓国人留学生のJさんとワタシのふたり。
Jさんは日本語ぺらぺら、でもって英語も全然ワタシのレベルよりはるかに高い。おまけにすごーくイイコ!(今日お休みのコもすごーくイイコ! ワタシはクラスメートと先生に恵まれているのです)

この1週間のニュースを話すセクションでは、「ワタシは先週インドカレーレストランに行きました」と、相変わらずたどたどしく話すも、Jさんは先生から「韓国では前大統領が自殺したでしょ。あなたの意見は?」とふられると、どわーーーっと意見を述べた。
英会話レベルもすごいけれど、「政治家とはこうあるべき」という意見をしっかり持っているのが、若いのにすごいっ!
日本人の同じ20代よ、どこまであなたは政治に対して自分の意見を持っていますか?
…って言う以前に、ワタシは40代にして日本の政府に対しての確固たる意見を持っていないので、えらそーなことは全く言えないんだけれど…。

ちょっと話は脱線するけれど、ケニア人(特に男性?)は、政治の話が好きだ。
それもあって、ケニア政府の方針についてや、「日本政府はどうなの?」という展開になる話題が多い。
ケニア人だけじゃないかな。
外国人と話をすると、避けて通れないのが自国政府の話。
で、こういう話題になると、それぞれの国の歴史や世界的ポジションの知識が必要になってくる。
ワタシがそういう話題に興味を持つようになったきっかけは“英語がしゃべりたい”からだったのかも。

Jさんの1週間の話題も終わったとき、ちょっぴり触発されたワタシは、先日観た「沈黙破る」の話をしてみた。
やっぱりワタシの英会話レベルでは無謀でした(^^;
「こういうドキュメンタリー映画を観ました」「とてもシリアスな内容でした」「もっと色々知らなければいけないと思いました」と、小学生レベルのことしか言えないーーー(>_<)
言いたいことはもっとあるのに……挫折。
そんなワタシの葛藤を先生は理解してくれたらしく、「イスラエル・パレスチナ問題のきっかけを知っている? 英国よ。」と英国人の先生は話し始めた。

うーーん、知りたいことが山積み。
日本語でしか知ることができない知識、そして英語じゃなきゃ知ることができない知識が山ほどある。
なんとかがんばらなければ…!

2009年5月25日

今日のチャイ

前回はかた〜いテーマだったので、今日はチャイネタ。

先日のアフリカンフェスタで買った、ケニアのバッグ2,000円(バナナの葉っぱ製)、さっそくチャイのお気に入りです。
ちょっと前までは、去年買ったサイザル麻のバッグ(同じくケニア製)がお気に入りで抱えていたんだけれど、今はバナナの気分らしい。

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2009年5月22日

「沈黙を破る」

木場のカレーを食べた後、「今日は徹底的に休み!」と決めたので、「沈黙を破る」というドキュメンタリー映画を観に行った。

うーーーん、まだうまく説明ができないんだけれど、すごく衝撃的なものだった。
もう一度観たいと思ったし、もっと知りたい、知らなきゃと思った。

なんのドキュメンタリーかと言うと、パレスチナ・イスラエル問題。
そもそもワタシはこの問題をよく知らない。
このあたりのことでなんとなく知っていたキーワードは、「ベツレヘム(キリスト生誕の地とされる場所。ワタシは信者じゃないけど中学から10年間カトリック系の学校だった)」「アラファト議長」「実家の近くにPLO大使館?が昔あった」「イスラエルによるガザ侵攻」くらい。
で、漠然としたものが「知らなきゃ」に変わったきっかけは、村上春樹氏のスピーチ(2月16日参照)だった。

イスラエル・パレスチナ問題の背景くらいは知りたいと思い、なんとなく調べたりはしたものの、よくわからない。
これを知るには双方のそしてもっと世界的レベルの知識がないと無理なのかなーと思って挫折。
そんな折、J-waveでこのドキュメンタリーのことを知り、観に行った。

相変わらず知識のない状態でみた映画。
でもすごく色んなことを考えさせられ、何か行動しなければいけないなぁ、と思う。
行動とは、もっと知ること、伝えること、自分自身を見つめ直すこと、などなど。
まだどうすればいいのかわかんないけど。

「沈黙を破る」は20年近く取材してきたジャーナリスト、土井敏邦氏の監督作品。『届かぬ声─占領と生きる人びと─』の第4部にあたるらしい。ワタシが観た「沈黙を破る」は、2002年3月、パレスチナの難民地区がイスラエルによる攻撃(占領下)に合う状況を伝えていた。
登場人物は大きく分けると“パレスチナの人々”、“イスラエルの元軍人”、“イスラエルの一般人”、“アメリカのボランティア女性”。

ドキュメンタリーなので、余計にリアル感が伝わってくる。
イスラエル軍に包囲されるパレスチナ難民区(イスラエル占領地区)。空爆もおこる。どうすればここまでぐちゃぐちゃになるんだろうと思われる居住区。ぐちゃぐちゃの中の血の海。攻撃で命を失ったパレスチナ人の遺体。泣き叫ぶ家族。7歳のパレスチナ人の子供が「大きくなったらイスラエル首相に対して自爆テロをする!」と淡々と答える映像。イスラエルの占領下におかれたパレスチナでは、目の前の友の遺体が戦車によって踏みつぶされていっても何もできない現実。。。
一方イスラエル側は、パレスチナによるテロの脅威にさらされている。占領地区における自国民を守るため、派遣されるイスラエル兵士たち。
タイトルの主役は彼らだ。国を守るため、家族を守るために派遣されるものの「根本的なことが違うのかも」と考える彼ら。でもそれを考えてはいけない、とあえて自分を“無”にする。目の前で悲しみにもだえるパレスチナ人を見ても、そしてその悲しみに共感できても、あえて“無”であり続けなければいけないイスラエル兵士たち。
イスラエルの一般人たちは、兵士たちの苦労をねぎらいながらも“国のためテロリストを排除する英雄”として祭り上げる。“沈黙を破った”イスラエル兵士たちは、自分の母親の息子に対する感情ですら「それは違う!」と訴える。
その訴えは、国家の方針によってうやむやにされていく。。。

冒頭でも書いたとおり、ワタシ自身まだ全然よくわかっていない。
ただわかるのは、どちらも自分や家族、友人を守らなくては、の気持ちでこうなってしまっていること。
そしてこれは、パレスチナ・イスラエルの問題だけでなく、アメリカのイラク・アフガニスタン侵攻や日本の自衛隊派遣で今後おこるであろう問題も映し出しているんだろうな、ってこと。

村上春樹氏が“壁”と“卵”で表現したスピーチの意味が少しだけわかった気がした。
誰だって“壁”や“卵”になってしまう。
往々にして経済力がある人・国は“壁”になりがちだけど。
最愛の娘をパレスチナ人のテロで失ったイスラエル人の父親が「復習しても娘は帰ってこない。でも、この気持ちとどう向き合えばいいのか。考えに考え抜いた末に言えることは、武力をもっての解決からは何も生まれない。むずかしくても話し合いを重ねるしか方法はない」と言っていたのがとても印象的だった。

↓「沈黙を破る」の予告編

インドカレー再び

ここ数週間、辛〜いインドカレーが食べたくて食べたくてしょうがなかった。
先週土曜日のアフリカンフェスタへの行きがけに、「アフリカ料理はそこそこ食べ飽きたので、辛いインドカレーを食べてから行こう!」と閃いた。
ちゃんと調べずに行ったので、結局インドカレーにはありつけず、インドネシア料理屋さん「スラバヤ」でチキンカレーを食べた。
ここでは“サンバル”という辛い調味料が小皿で出される。
これでココナッツ風味のカレーを辛くして食べるも、やっぱりワタシの求めていた味ではない。
(でも、このインドネシア料理屋さん、すごくおいしかった&雰囲気良かったので、機会があればまた行きたいトコロ)

で、まだインドカレー熱は収まらず、今日は午後から休み!と勝手に決めて(GW全く休んでいないしね)、木場(3月4日参照)まで行っちゃいました(^^;
ランチタイムぎりぎりの時間を狙って到着。
2種類のカレー(6種類くらいの中から2つ選べる)、ナンかサフランライス、スープ、サラダ、飲み物がついて950円!
義妹と行った時のインド人がオーダーを取りに来た。
カレーは“シーフード”と日替わりの“チキンとジャガイモとシメジ”を辛さ“6”(←6はインド人並の辛さ、日本人用は3)で頼んだ。
“辛さ説明”をする前にワタシが“6”を頼んだので、インド人はワタシのことが気になるらしい。
スープとサラダを運んできたときの会話。

インド人「どこから来た?近所か?」
ワタシ「遠いところから来たの。前に1度夜に来てとてもおいしかったから今日は来たの」
インド人「木場に用事があるのか?」
ワタシ「わざわざココに来るために木場に来たの」
インド人(嬉しそうに照れる)

ランチのカレーは、ナンまたはサフランライスがおかわりできるらしいけど、ナンはすごくでかい。
わくわくのインドカレー“辛さ6”は、やっぱり辛かった。
前回「次は“7”でもいいかも」と言っていたのは撤回。
っていうか、ここのところ更年期障害で湿度や暑さやちょっとした空気の変化で汗が止まらなくなるワタシにとって、“6”は汗腺を刺激したみたい。
「おいしい〜〜〜。でも、汗が止まらない〜〜〜。辛〜〜い!食べきれるのか!?」と、ひとりもだえながら食べていたら、またインド人が来た。

「これサービス。野菜のカレー」

この写真は撮らなかったけれど、つまり辛さ“6”のカレーが3つになってしまった(^^;
わざわざ遠くから来たことが気に入ってもらえたのか、はたまたいきなり“6”を頼んだのが気に入られたのか……。

ひーはー言いながら食べていると、またインド人が来た。
インド人「おいしいか?」
ワタシ「どれもおいしい! けど、ビールが飲みたい」(アイスチャイはイマイチだったので、冷たいビールをぐわーっと飲みたかった)
インド人「ランチビールは200円♪」

ビールで復活!
でもって、熱々の“6”カレーはとても辛かったけれど、少し冷めてくるとそれほど辛くなくなってくる。全然OKになって、本来のインドカレーの味が堪能できるようになってきた。
やっぱりおいしい!
シーフードカレーは、まぁ“シーフードミックス”かな。海老、イカ、アサリ、などが入っていた。
野菜カレーはにんじん、ブロッコリー、カリフラワー、インゲンが入っている。
で、一番のお気に入りは日替わりカレーの“チキンとジャガイモとシメジ”。
また来たインド人に「どれが好きか?」と聞かれたので、「チキンとジャガイモとシメジ」と言うと、またまた嬉しそうにこれはインドの家庭の味カレー、と教えてくれた。

ナンorサフランライスのおかわりを断り、きれいに完食! おなかパンパン!
最初はどうなることかと思ったけれど、大満足!おいしかったーーーっ。
と思ったらまたまたインド人登場で、「コーヒーをサービスするが飲むか?」だって(^^;
コーヒーをさらにゆっくり飲んで、お会計は1150円(ランチセット+ビール)。

ちなみにインドカレー屋さん、六本木・銀座・新宿・千歳船橋とどれもおいしいところに行ったけれど、今のワタシ、木場のここが一番お気に入りです。
インドカレーが食べたくなったら、ぜったいまた行く!

↓左のカレーが“シーフード”。右が“チキンとジャガイモとシメジ”。このあと同じ量で“野菜”が追加される。
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2009年5月16日

アフリカンフェスタ2009

今年も横浜赤レンガ倉庫での開催になってしまったアフリカンフェスタに行ってきました。

昨年4月末から5月アタマにかけて開催されたTICAD IV(第4回アフリカ開発会議)の流れから、それまで毎年日比谷公園で開催されていたアフリカンフェスタは横浜で、になってしまった。
横浜でやってもいいんだけれど、もう少し広い場所でノビノビやってほしいなぁ。
日比谷公園のときは「日本におけるアフリカ人集結の最大のお祭り」って感じだったけれど、横浜になってから「日本人主導のアフリカイベント」になってしまった。
まぁ主催は外務省だし、横浜中田市長が張り切っているのでしょうがないのかなぁ…。

折しも横浜は開港150年の記念イベントが目白押し。
その会場とアフリカンフェスタの会場は隣接していて、一般のお客さんが多く“アフリカを知る”ことに参加してくれたことはプラス点だとは思うんだけどね。なんだかアフリカ人が遠慮している感じで寂しかった。

今年はNGO/NPOブースで買い物をしてみた。
ケニアにルーツのあるオバマアメリカ大統領のカンガがあったので、1つ買った。
4月のアフリカンフェスティバルでは、1つ2つしか見なかったけれど、今回は色んなオバマさんカンガがあった。

オバマ大統領のお父さんはケニア出身。
アメリカ大統領選挙の時、オバマさんの勝利宣言を受け、ケニア政府は即日翌2008年11月6日を国民の祝日とした。
ケニアだけならまだわかるけれど、アフリカの各国が“国民の祝日”制定の素早い行動をとったのが、とても印象的だった。
それだけオバマさんはアフリカのヒーローだ。
ましてケニア人にとって、さらにルオ人にとってオバマさんは誇りの象徴だ。

アフリカンフェスタでケニア人の友達に会ったので、オバマさんカンガを見せびらかしていたら、ケニア人(他の国の人もいたかも)がたくさん集まってきた。
「いいな〜!そのカンガ!」と言われたり(日本語で)、書いてあるスワヒリ語を教えてくれたり。
カンガにはスワヒリ語でメッセージが書かれているのだけれど、「Hongera Barack Obama(おめでとう!バラク・オバマ!)」と「Amani(平和)」「Mungu(神様)」しかわからないぞ。
初対面のケニア人にカンガのスワヒリ語を教えてもらう。
「Upendo na amani ametujalia Mungu」
愛と平和が神様の御心にありますように、って感じだっけっかな?

↓きちんと伸ばして撮ってなくてごめん。これが買ったカンガ。オバマさんの両サイドにはアフリカの地図。
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2009年5月15日

旅の思い出<タイ編>

調子にのって怒濤の「旅の思い出」シリーズです。
そのうち更新ペースも落ちると思うのでおつきあいを。

タイには4、5回行ったことがある。
そのほとんどは友人や家族との旅行だったけれど、ワタシが初めて行ったタイは結果的にひとりで参加したツアー旅行だった。

大学の友達と卒業旅行として2人で行こうと計画したタイ旅行だったけれど、彼女が直前に体調を崩し、結局ワタシ1人でこのツアーに参加した。
バンコクの空港で“現地添乗員”お迎えの2泊だか3泊だかの「バンコク&パタヤの旅」だったと思う。

バンコクで迎えてくれたのは、つたないながら日本語のできる可愛いタイ人女の子の添乗員さん。
何名のツアーなのかなぁと思ったら、なんとこのツアー、ワタシと同い年くらいの男の子が同じくひとり、だけのツアーだった(@@)/
その男の子もワタシと同じく、一緒にくるはずの友達が、急遽キャンセルになったとか。。。
かくして日本人の同年代の男女+タイ人女の子添乗員の旅が始まったわけです。

こう書くと、ワタシと“その男の子”、もしくはタイ人添乗員さんとでナニカあったのでは!?と思われるかもだけれど、大事はあったけど、ご想像上のナニカは全くナシ。

事件はパタヤでおこった。
その夜、ワタシたち3人はパタヤのレストランでトムヤムクンやその他タイ料理を楽しんでいた。
数時間後各々部屋に戻る。
しばらくして、なんだかお腹が痛くなってきて、その晩ワタシは何度かトイレを往復した程度だったけれど、翌日、同行の“男の子”は悲惨な状態に陥っていた。
タイ人添乗員さんの女の子も「私も昨日、おなか、変だった」と告白した(^^;

この日はすでにバンコクに戻って帰国する日だったので、用意されたバンに乗る。
すでにワタシとタイ人添乗員さんは復活していたのだけれど、“男の子”は息も絶え絶えの状態。
途中で病院に行くことになった。

パタヤとバンコクの道中にある病院は、それでも大きい病院だったんだろうけれど、ワタシがイメージしていた病院とはだいぶ違った。
英語がワタシ以上にできない“男の子”と、日本語がそれほど完璧でない添乗員さんと病院の先生の間に立たされたワタシは通訳をさせられる。
結局、車の中で病院から指示された点滴をしつつ、バンコクに着いたら一番大きな病院に直行することになってしまった。
えーーーーっ、タイ最後のこの日は、バンコクでお買い物、じゃなかったんだっけー?

もっと大勢のツアーだったら違ったのだろうけれど、なんせツアー客は元気なワタシと弱り果てている“男の子”だけ。
結局ワタシもバンコクの大病院につきあわされるハメになる。
まぁ、こんな経験、めったにできないから、それなりに楽しんでいたワタシだけど。

“男の子”は、具合は悪そうなものの、喋ったりすることは問題ないので、だんだんワタシへのリクエストがエスカレートしてくる。
「看護婦さんにトイレ行きたいって、通訳してくれる?」とか
あげくの果てに「タイシルクスカーフをお土産用に5枚くらい買ってきてくれる?」とか。
なんなんだよ、こいつ!

期せずして旅のパートナーになった“その男の子”は、ワタシの友達になるパターンの人とは180度違うタイプ。でもまぁそれはしょうがない。ここは大人の対応を、と思っていたけれど、お土産買ってこいまで頼まれちゃー、いい加減にしろよ!な気分。
あんたのせいで、ツアー最後のバンコクでの半日がパーッになったんだけど。

そのワタシの気分を察して、添乗員の女の子が「まぁまぁ」と間に入ってくる。
結局ワタシと添乗員の女の子は、病院近くの繁華街に出て、なんとかお土産になりそうな“タイシルクスカーフ”を購入。しょうがないので、自分のお土産もここで調達。
まぁ、観光客なんていないこの地域を散策できたのは、それなりにおもしろかったんだけど。

“男の子”は帰りの飛行機搭乗時刻ぎりぎりまで病院に拘束され、それにつきあわされたワタシは空港でもトランシーバーを持った係員さんと共に延々走り続けることになった。
当然、免税店で化粧品買って〜♪なんて時間は全くなしっ。
滑り込んだ飛行機では、“男の子”と席が離れていたので、それがせめてもの救いだった。

後から思えば、日本に戻ってツアー会社に文句言えばよかったかな、だったんだけど、何も行動しなかったワタシ。これはこれでおもしろい旅だったかな。
あ、でも、ワタシはたぶんこの旅のあとからパック旅行はいっさい行かなくなったのかも。

ちなみに後からわかったことなのだけど、へとへとになって乗り込んだバンコクからの帰りの飛行機に、実はワタシが当時よく行っていた“おかまバー軍団”が社員旅行で乗っていたらしい。
お互い日にちと便名を照らし合わせて「えーーーーっ!同じ便だったんだー!」と大騒ぎになったけれど、機内で遭遇していたら、さらにややこしいことになっていたでしょう。
会わなくてよかった。。。

2009年5月14日

東京23区推奨ごみ袋

ここ数週間、買い置きのゴミ袋がそろそろなくなりそうだからと、スーパーとかに行くたびにいつものヤツを探すも、なんか棚ががらんとしていて見あたらない。
この不景気のせいでゴミ袋業界に何かあったのか!?とか原材料に何か異変がおこっているのか!?と、まぁいいや、またにしようと思っていたんだけれど、今日、いよいよおかしいことに気づいた。

お店の人に聞けば良かったんだけどね(^^;
ネットで調べたら、可燃ゴミに東京23区推奨ごみ袋を使わなきゃダメって制度、今年の3月31日で廃止になっていた(^^;
知らなかったっ。
ワタシだけ?
もう5月も半分過ぎたってのにね。

2009年5月12日

プライベートレッスン

ワタシにとってはゴールデンウィークも全く関係なしの怒濤の仕事続きが終わった今日、この2週間全く英語の勉強してなかったーっっ状態で行った今日の英会話学校。
予習もできず、まずいなー、今日はおとなしくしていようと思って出かけた。

がっっ、今日はなんと初めてクラスの生徒はワタシひとり状態に(いつものメンバーはふたりとも休み。先週のトライアルの人はこのクラスを選ばなかったみたい)。

マンツーマンの個人レッスンは今まで他の英会話学校で受けたことは何度もあるんだけれど、これは先生の“質”によって全く違う。
今のワタシの先生は、そんなワタシが“最高の先生!”と思っている人なので、結果的になってしまったプライベートレッスンもすごく充実したものになった。
でも90分間の授業を1対1って、すごい集中力使うので、へとへと。
今まで120分間のプライベートレッスンを何度もやってきたけれど、もう全然くらべものにならないくらいの90分でした。

生徒はワタシひとりなので、今日はテキストを使わずに90分間フリートークの中での勉強。
まずは、先日のアセスメントについて、お礼を言って、さらにどういう勉強法がいいかを尋ねてみた。
それに対する先生の応えは、“Say out loud”「とにかく声に出して言うこと」、“Repeat again and again”「何度もそれを繰り返して言う(使う)こと」。
それが何より上達の秘訣みたい。わかっちゃいるんだけど……(^^;
Listening Comprehension(聞いて理解する)部分について、「ワタシはすぐ単語だけ拾って、意味を想像してしまう(これで全く意味を取り違えていることにあとから気づくこと多々あり)」ことの解決法を尋ねてみたところ、「想像することは大切なこと。あとは経験を積むしかない」とのこと。これも焦ったところで近道はなし、ですね。
それより何より、先生はワタシの話すスピードが遅いのを気にしている。
「文法はOKだから、止まらないようにがんばって!」と。
これが一番むずかしいんですけど…。
短いセンテンスだったらいけるけど、ちょっとでも長くなると、言うことをまず書いて、それを台詞を言うように暗記してからでないとダメ。
そもそも日本語でばばばっ!とまくしたてるように話すときって、アタマは使わずに口から先に言葉が出てくるわけで、英語にしてもそれと同じ状態にならないと、ばばばっとは言えないと思うんだけど…。
文法無視して単語の羅列だけなら、もう少し速くしゃべれるとは思うけど…。

まぁそんな感じで今日はあれこれ先生と話せたので、大満足。
自分のためには絶対この先生でプライベートレッスン週3回くらい受け続けたら、すごい上達するだろうなぁと思うけれど、非現実的なので、とりあえずマイペースでがんばるつもり。

2009年5月 8日

旅の思い出<ケニア編>

旅の思い出<ケニア編>は1回ではすみそうもないんだけれど…。
なんとなくある1晩のことを思い出してしまったので書いてみよう。

ケニアには40を超える民族が暮らしている。
日本ではマサイ族が有名だけれど、その1つにメルーという民族がある。
メルー族に伝わる一弦ギター「シリリ」がらみの話。

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業務用ハインツ缶(わかる?)くらいの大きさの空き缶の上下を抜いた筒状のものに、山羊の皮を張って木の棒を刺して、針金の弦を1本だけ張って…という工程で作られるのがシリリ。
これを日本の昔の“木のモノサシ”みたいなのでギコギコ弾きます。
1本の弦しかないのに、弦の押さえ方が独特で(高校・大学生時代、ワタシは6弦ギターを人前で弾いていた(^^;)、結構むずかしい。

このシリリを作るアトラクションに参加したワタシ@ムパタ・サファリクラブ

メルーの先生から2日がかりでマンツーマンで教えてもらいながら、自分のシリリを完成させ、先生の指導の元、弾き方も教わった(課題曲がある)わけです。
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↓ワタシが張った山羊皮の締め付け具合をチェックしてくれる先生
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↓柄の部分は、熱く焼けた鉄の棒をジュッとあて、“チーターの斑点のように”という指示のもとワタシが作ったもの。左手前のボトルにはニスみたいなのが入っていて、コレをあとから塗ります。
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↓持ち方はこんな感じ。親指下の手の平“腹”の部分も使うのでむずかしー。
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で、前置きが大変長かったんだけど(いつものごとく)、シリリが完成したその日の夜、ワタシはひとりバーでバーテンダーさん相手に飲んだくれていた。
そこへ、ゲームドライブ(動物を見に行くサファリね)で一緒になるドイツ人のひとりが「タバコは売っていないか?」とやってきた。
ほとんどのケニア人はタバコを吸わないし、ムパタにはタバコがなかったので、ワタシのを数本あげた。

「みんなで外で飲んでいるから来ない?」とドイツ人に誘われ、「後で行くね」と言ったものの、ケニア人バーテンダーさんとスワヒリ語講座をやっていたら、すでに1時間近くたっていた。
ジントニックをおかわりして、グラスを持って外に行ってみると、タバコをあげたドイツ人ひとりだけがそこにいた。
待っていてくれたんだー!
なんとなく、日本人と共通するその律儀さに、感動してしまう。

ケニア・マサイマラの満天の星空の下で、このドイツ人とお互いつたない英語で話をした。
言葉が不自由なのでたわいもない話。
お互いの国についての質問。
「日本に行ってみたいが心配事がある。ケニアにはマラリアを媒介する蚊がいるけれど、日本はどうなのか?」と聞かれたときには、ちょっとびっくり。
これだけ情報が瞬時に飛び交う世界だけど、まだまだ色々お互い知らないことがあるんだなー。

で、話に詰まった時、ドイツ人はワタシの持っているシリリに話題を移した。
細かい説明をするのはめんどーだったので、彼の前で作りたて&習いたての演奏を披露した。
ヨッパだったからできたことかもだけれど、なんだか不思議な気分になる。
空には天の川がまぶしいほど広がり、目の前の暗闇は延々と広がるサバンナ。
眠っていた動物たちは、ワタシの下手なシリリの音をきっと聞いている。
そしてワタシの前にはキャンプファイヤーのやさしく燃える火と、きっとこの先会うことのないドイツ人ひとり。

「ではそろそろ寝るね」とドイツ人が去った後、ワタシはその空間を独り占めして残りのジントニックを飲んでいた。
部屋に帰る前に、またひとりその場でシリリを弾いた。

うーーーーん、シラフのあたまで考えると、すごい酔っぱらいで赤面。
でもこの一連の出来事が夢の中の出来事のようで、ワタシの中でずっと小さく暖かく残っているのです。

2009年5月 7日

チャイの食欲爆発

チャイの食欲がここ数日、すごい。
いつも1日の規定量をタッパに入れてあげているんだけれど、ずっと家で仕事しているワタシに頻繁に「ごはんくれー」「ごはんくれー」と飛びかかってくる。
会社勤めでもして家にワタシがいなければ、それなりに我慢するんだろうけれど…。
で、ワタシも飛びかかられようが「今追加であげちゃうと夜に足りなくなる!」とじっと我慢。
これ、結構辛いです…(^^;

食欲旺盛ということは腸の状態がいいってことなのか、便が笑えるくらい出るから食欲旺盛なのか、とにかくここ数日のチャイはすごい絶好調。
でも、これで油断しちゃいけないことは、よーくわかってます。

先月末30日、お世話になったチャイの病院の閉院日だったので、仕事帰りに挨拶に行った。
最後の日の残り2時間ほどの時間だったので、もう片付けとかしているかな〜と思って行ったら、なんと患者さんが5人くらい待合室で待っていた。
こりゃ先生とおしゃべりは無理だと思い、看護婦さんにお礼と、転院先の病院でも問題ないことを伝え、先日谷中で買った猫てぬぐいとシールを置いてきた。

そしたら夜、先生から電話があった。
手術をしていただいた転院先の病院でも院長先生が気にかけて診てくださったこと、その後順調なことなどを伝え、先生も「それを聞いて安心したわ〜。でも、油断しちゃダメよ!」と。
先生は獣医さんは引退しちゃうけれど、同じ場所でギャラリーをはじめるとか。
お知らせが来るのが楽しみ〜〜〜。

↓久々にぱちり。常に「ごはん?」のチャイ。ワタシの後ろでワタシの脱ぎ捨てたスリッパ抱えてた(^^;
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2009年5月 5日

旅の思い出<アメリカ編>

GW特集?旅ばなしシリーズ2「アメリカ編」です。
最近でこそ全く行っていないけれど、アメリカはハワイやグアムも含め、もっともワタシがたくさん訪れた国になってしまっています。

生まれて初めての海外旅行は、アメリカ本土。高校2年の時。
中2の弟とふたり、夏休みの大半をシラキュース(Syracuse)でのホームステイとワシントン、ニューヨーク、L.A.で過ごした。
今考えると、すごい経験。親に感謝。
もっとその後の人生に活かせれば、ワタシの人生変わっていたのかも…。
ちなみに弟はこの経験が彼の人生を変えた模様。

シラキュースにいた2週間は、弟以外に回りに日本人はいなくて、完璧にアメリカ人世界に放り込まれた状態だった。
英語に対して私は今でもずーーっとコンプレックスを持っているけれど、今思うと、高2レベルの英語で(個人的成績は決して良くなかった)なんとかなった。

この旅のことを書こうと思ったのは、17歳のワタシが初めて黒人と接触したのはこの時だったから。

その日、ワタシたちはホームステイ先のジーンの友達の別荘に遊びに来ていた。
湖のほとりの別荘だった。
家主は初老の女性と黒い毛むくじゃらの中型犬。
ワタシも弟もイヌ大好きだけれど、このイヌはとても臭かった。
そばに来るだけで強烈なニオイが漂う。
ワタシと弟は「にこにこしながら日本語で悪口いってもわからないよ!」と、そのイヌを前に、にこにこしながら「くっさーーーーい!」などと言っていた。

別荘にはもうひとり来客があった。
名前は忘れてしまったけれど、黒人の女の子。
ワタシが初めて会った黒人が彼女だ。ワタシと年齢も近かったと思う。

その晩、ワタシは彼女とダブルベッドの寝室で寝るよう家主から指示された。
その時感じたワタシの抵抗感が、その後ずっとワタシの中のトラウマになった。

まずダブルベッドというものが初めてだった。
そしてそれに自分以外の人と一緒に寝る、ということが初めてだった。
弟と同じベッドで寝ろ、と言われれば、全く納得できたと思うけど、家主たちは、女同士ワタシとその黒人の女の子が一緒に寝るように指示した。

結局ワタシはその晩一睡もできなかった。
同じベッドの中に他人がいる。
それも外国人、それも黒人。

この経験は、のちのワタシを混乱させた。
初めて他人と一緒に寝るから緊張したのか。
初めて外国人と一緒に寝るから緊張したのか。
初めて黒人と一緒に寝るから緊張したのか。。。。

白人、黒人など、肌の色や国籍を意識した人間になりたくない、と思ったのはこの時のことがきっかけだったと思う。
アタマではそう思っていても、潜在的な自分の価値観が17歳のワタシには理解できなかった。
潜在的な反応で黒人の彼女を拒絶しているとしたら、それは自分にとってとても悲しいことだったけれど、その時のワタシはどうすることもできなかった。

すごく極端だけれど、この時の経験から、ワタシは黒人に対して「自分は対等でありたい」という気持ちが強く働いていたような気がする。
肌の色だけでなく、先進国・途上国という“くくり”にも抵抗を感じる。
誰であれ、一個人としてその人とつきあいたいかつきあいたくないかだけで進んでいけば良いような気がした。
だからこその、その後のワタシにとってのケニアだったのかも。

こう書きながら、17歳のときと同じように考え込んでしまうワタシ。
もっともっと世界を知らなきゃです。

GW

みなさま、連休いかがお過ごしでしょうか。
あっという間にあと1日……、悲しいー。

ばりばり全く連休関係なく朝から夜更けまで仕事になっているワタシ…。
なんで!?って考えてみたら、今抱えている仕事、全部社長さんクラスのオジサマたちとのやりとり。
このご時世なのか、家でのんびりするクセがついてないのか、連休中といえど、午前中から電話は来るし、メールは来るし、、、。
直でこういう方々とやりとりするのは、勉強にもなるし、その場で決断してもらえるので速くて良いのだけれど、こういう連休中に関してはマイナス点かも(^^;

そんなわけでワタシのGWは何もできず。
チャイのトイレ大掃除や、家の大掃除や、図書館で借りてきた本読んだり、録りだめてあるテレビ番組見たり、英語の集中学習をしようと思っていたのに、どれもまっっったくできず!!!
休日料金もらえるわけでもないから、もう少し仕事のやり方考えないとだめかも。
身体がだんだんついていかなくなるお年頃です。

・・・と、愚痴ばかりで今日は終わり。

同じ雨の日でも、ケニアのこんな地平線ごしに見る雨雲を想像して気を取り直そう。(2003年11月19日・マサイマラにて撮影)
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2009年5月 1日

旅の思い出<インド編>

先日テレビを見ていたら、インドの中流階級層狙いで日本の企業がインドをターゲットにしている話をしていた。

インドで思い出したので、旅ばなしシリーズ1「インド編」。
以前自分のサイト用に書いたものの、アップしなかったので、リライトしてみました。

長文です。GWにお時間ある方はどーぞ。
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当時は「ボンベイ」と言われていた現ムンバイに足を踏み入れたのは1991年、初めてのケニア行きの時だった。
夜10時頃ムンバイに到着し、翌日の午後ナイロビへの便に乗るというトランジット。
ナイロビで友達が迎えてくれるものの、そこまでは一人旅。
そういえは、一人旅のスタートは、この旅からだった。

ムンバイに着くまでのエアインディア内では、当時日本にいっぱいいたイラン人にしつこくつきまとわれ、いい加減アタマに来て、ムンバイに到着した途端、一目散に税関まで走った。
早くイラン人から解放されたかったから。
インドは目的地ではないので、当然荷物のピックアップもなく、一番乗りで空港の外へ出た私。
そしたらいきなりライフル銃を持った警官だか軍人がワタシの前に立ちふさがった。
こんな大きな銃を目の前で見た事なんて初めて。
警官は「わーわーぎゃーぎゃー」と全くわからない英語でまくし立てる。
(当時の私は今以上に英語ができなかった)
でもどうやら「なんでオマエは荷物を受け取らずに出て、そんなに急ぐのか!?」的なことを言っているようだったので、「明日、ナイロビへの乗換便に乗るから!」と、「Tomorrow」「Nairobi」「Transit」を繰り返していたら、いつの間にか警官はいなくなっていた。

ここですでにヘトヘトのワタシ。
次の試練は、航空会社が用意しているホテルまでの送迎バスを見つけて、それに乗ること。

ムンバイの空港はどこも薄暗い。
もちろん外はもっと暗い。
人がわんさかいる中で、送迎バス乗り場を見つけるなんて、不可能に近いと思った。
でも、どうにかするしかないので、手当たり次第のそこらへんの人に「○○ホテルに行くバスはどこ?」と聞いてみた。
みんなが教えてくれたバスに乗る。
バスの中は真っ暗で、暗さに慣れた目で見渡すと、回りはみーーんなターバン巻いたオジサンたち!
空港を出たバスは、すぐに何千?もの人がいっぱいいる場所を通り抜ける。
「この人たちは何をしているんだろう? 何か花火大会みたいなイベントがこれからあるのかな?」と思った。
とにかくすごいたくさんの人たちが広大な空き地に敷物を敷いて座っている。
次にトタン屋根のバラック小屋がいくつも現れた。
小さなランタンがその家々につるされている。
道には人もいっぱいいるけれど、牛もいっぱいいる。
「ここは町なのかな?」と思う。

バスの窓は全開になっていた。
いきなりこの地域に入った途端、バスが止まるたびに真っ暗なバスの中に窓からおびただしい腕がにょきにょき差し出される。
「バクシーシ!」

花火大会を待つ人でもなく、賑わった町でもなく、ここはスラムだと言うことに気づく。
今は知らないけれど、当時のムンバイは、国際空港の回りは巨大なスラムだった。
気づいてからはものすごくカルチャーショック。
乗り物に乗るとき、いつも窓際に座って外を眺めるのが好きな私だけれど、外からの腕につかまれるのが怖くて、思わず通路側の席に移動した。

「このままワタシはどうなってしまうんだろう?」と思った。
航空会社の送迎バスでないことは乗ってからわかった。バスの乗客で外国人はワタシひとり。
もう乗っちゃったからしょうがない!と覚悟を決めていたら、いきなりバスが止まり、乗客のターバン達が「○○ホテル!」とワタシを見ながら叫んでいた。

なんとか無事に目的のホテルには着いた。。。

レセプションに日本人男性2人組がいたので、ここまでの道のりを聞いてみたら、彼らはちゃんと航空会社の無料バスに乗ってきたらしい。
・・・バス代は日本円にして30円くらいだったけれど、よく無事に辿り着いたなーと思う。
なんだかすごい経験をしてしまったワタシ。

翌日も一悶着、いや何悶着もあった。
色々あって、ようやく空港に着いた。
両替所でルピーからドルに両替を頼んだら「なんでオマエは昨日ルピーに替えたばっかりなのに、またドルにするのか? あっちで申請の手続きをしてからココに来い」と言われ、行く先々でたらい回しにされ、あちこちさまよい歩き、まるで自分がドラクエとか(当時ハマっていた)RPGの主人公になったように思えた。
ようやくナイロビ行きを待つロビーに辿り着いたら、今度はいきなりワタシの名前を呼ぶ声。
振り向くと、昨日の機内でのイラン人軍団のリーダー。
うんざりしていると、彼が日本語で言う。
「相談にのってもらえませんか? 多くの家族たち(イラン人)が、日本にまた行けるのかわからないでいます」。
なんだろう?と話を聞いてみたら、いつの間にかワタシの前に神妙な顔つきをしたイラン人の列が出来ていた。
彼らは順番にワタシにパスポートを見せる。
よく見ると、パスポートにマジックで「退」の文字が○で囲んで書いてあるのだ。
「なんだこれ?」とワタシも思う。
当然イラン人はこの意味がわからない。
ワタシもわからないけど、「退」の文字は「退出」の「退」だ。
なんでマジックで書かれているのかは疑問だけれど、イラン人に「また私は日本に行けるか?」と聞かれ、「無理だと思う」と応えた。
リーダーのイラン人は「次の人!」と並んでいる他の人に声をかける。
「退」の文字を見るたびに同じことをワタシは言った。
そのたびに悲しそう顔をして、お辞儀をしてワタシの前から離れる人たち(^^;

ワケわからなかったけれど、あの時私が推測で「日本への入国は無理だと思う(これは強制送還なんじゃない?)」と応え、がっくりしていた人たちはその後どうなったんだろう…。
なんでマジックで「○退」って書いてあったんだろう? いつ誰が彼らのパスポートにそれを書いたんだろう? 本当に強制送還の意味だったのか? その後もずーっと気になっていることの1つ。
その時、10歳くらいのイラン人の女の子と仲良くなり、一緒に写真を撮ったり住所交換をしたりしておしゃべりした。

が、ケニアからの帰り、またムンバイで一悶着あった。
「オマエの荷物かどうか確認しろ」と言われ、機内預けの荷物を確認しに倉庫のようなところに連れて行かれた。確かにワタシのバッグだったのだけれど、どうもやっぱり問題があったようで、成田についたあと、バッグ(リュックにもなる大型ソフトケース)には無事会えたものの、外側のポケットに入れておいた撮影済みフィルムが全てなくなっていた。
どうやらムンバイで、“未使用フィルム”と思われて、盗られたらしい。
まぁこれはきちんと鍵をつけていなかったワタシの不注意でもあるけど、当然撮った写真は全滅。。。
ってことで、住所交換したイラン人の女の子に写真を送ってあげることもできず、ケニアでたくさん撮った写真もなくなり、さんざんなインドだった。

これだけで書くの止めるつもりだったのだけれど、もう1つだけ書いておこう(まだまだあるけど)。
イラン人から解放され、ナイロビ行きの飛行機がそろそろファイナルコールに近づいてきたとき、とりあえずトイレに行ってから搭乗しよう思った。
最初は誰もいないトイレだったのに、個室から出た途端、目の前ににこにこした老婆がいた。
手を洗おうとしたワタシより先に、彼女は蛇口をひねり水を出した。
無視していると、ワタシの手に石鹸らしき液体をかけてきた。
「No thank you!」というとやめたけど、手を洗い終わったワタシに、今度はピンセットでつまんだ濡れティッシュのようなものを差し出す。
どうやらこれで手をふけ、ということらしい。
あやしいのは見え見えだったので、またしても無視してトイレから出ようとしたら、なんとドアの前で漫画のように両手をヨコに広げ、彼女は通せんぼをしたのだ!
オマエのサポートをしたんだからお金を出しなさい、と。
あいにくトイレにはワタシとこのおばさんのふたりきり。
ロビーの向こうからはナイロビ行きのファイナルコールが聞こえてくる!
むかつくーーーー、と思いながらも英語で戦えないワタシは、10円玉を彼女に渡した。
彼女はしげしげと10円を眺め、こう言った。
「ノーノー、マダム。ワン ダラー」
結局ワタシはドアの前からどいてもらうために1ドルを彼女に渡してしまった。
ぐやじいいいいいいいーーーー。今思い出しても腹がたつけれど、それは「なんであなたに1ドルもあげる必要があるの!?そこどいて!」と英語で言えなかったワタシに対して悔しかったんだ。
インドのこういう人たちはとにかくたくましい。
これはインドに限ったことじゃないのは、その後たくさん学んだワタシです。

あの日のボンベイは、今のムンバイとどう違っているんだろう。
アメリカに例えると、ムンバイはインドのニューヨークと言う。
その後、仕事関係で知り合ったインド人のRさんと仲良くなった。
彼女のご両親は仕事の関係でケニアにいたこともあり、共通の話題がいっぱいあって、仕事外でも一緒に食事したり話をした。
その後彼女とも、仕事が離れたせいで連絡がとれなくなってしまったけど。

インドはここ数年、テロ事件も多くあった。ムンバイでの昨年11月のテロ事件は記憶に新しいところ。
隣国のパキスタンとの緊張はずっと続いている。
個人的には全く興味のないインドだったけれど、そんなわけで、やっぱりちょっと気になる国の1つになってしまった。
世界的にも高度成長を続けるインド。
どこへ目を向けても、そこにはインドと中国がいつも話題に出てくるほどの存在。
これからどうなっていくんだろう?

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